かつてカーナビのない時代があった

ひと昔前、『話を聞かない男、地図が読めない女』という書籍が流行ったことがある。どうやら男性と女性では、脳の機能が違うのだという説に基づくものらしい。

脳を科学的に解明する話を聞いても、私の「脳」は積極的に理解を示そうとする意志は元々ないために、いまだにその本は読んだことはないのだが、我が女房を見る限り、確かに彼女は学生の頃から方向音痴であり、加えて地図を読み解こうとする意思も皆無であった。

たとえば、料理がおいしかったお店の場所を特定しようとする会話では、どこかの駅や大きな交差点などを起点として、そこからどっち方向に何百メートルくらい・・・と説明するのが”一般的”だろうと思う。

しかし我が女房は、まるでそのお店の入口に立って、ぐるっと見回したときに見える風景を説明するかの如く、どこそこのお隣とか、何々のお向かいあたりとか、極めて曖昧もしくは超ピンポイントな位置情報で説明しようとする。

したがって、カーナビがこれほど普及する以前は、遠くにお出掛けしたときに助手席に座った女房の「助手」としての職務は、該当エリアが開かれた地図が閉じないよう開いた状態を保持して、私から声がかかればヒョイっと手渡す、という極めて限定的もので、あとは車窓を流れる景色を見ながら、「天気いいねえ~」とか「お腹すいたぁ?」とか、とにかく呑気なものであった。

我が家のカーナビに求めるものは

その役割も今ではカーナビがしてくれるので益々呑気な助手になってしまい、最近では外食からの帰り道などは、ほぼ間違いなく横でうたた寝をしている。しかし、だからこそ、私とのバランスが取れているとも言える。

なぜならば、私は免許取りたての頃から現在に至るまで、目的地までのルート選択は常に自分で決めているので、この道が近いとかこっちのほうが走りやすいとか隣の相方から言われるくらいなら、どこをどう走ってきたか覚えていないくらい深く眠りについていてくれる方がありがたいのである。

そんなわけだから、我が家の愛機たちに搭載されるカーナビに求めるものは至ってシンプルな機能のみ。せいぜいVICS対応でメモリー容量がそこそこあれば、自車の周辺の渋滞状況や細かい裏道のトレースもきちんとできるので、もうそれで充分。加えて、取り締まりに関する情報がインプットされていれば完璧なのである。

たまに見知らぬエリアに出かけた時などは、慣れない手つきで渋滞考慮の推奨ルート検索をするものの、ひとたびそのルート上で渋滞が発生しようものなら、二度とナビの音声に従った運転はしなくなる。

ナビ推奨のルートから大きく外れて、私の身勝手な行き当たりばったりの運転になってからのナビの音声には哀れみすら感じる。何度も何度も推奨ルートに戻るための案内を更新しては繰り返し案内し、その声はむなしく車内に響きわたる。挙句の果てには安眠を妨害された女房によって、設定ルートはきれいに消去されてしまうのである。

自分でルートを決めるのは楽しい

でも実はこの推奨ルートなるものには昔から疑念たっぷりである。なぜならば、今やほとんどのクルマにはナビが搭載されているだろうし、仮に自分がどこか地方にいたとして、はるか遠方の首都圏を目指しているとき、同じような首都圏エリアのナンバーを付けたクルマも同じ方向に帰ろうとしているに違いない。

そしてそれぞれのナビが案内するルートは、メーカーが異なろうとほぼ同じ案内をするだろうし、となれば道路上にいる首都圏からのドライバーは同じルートを選択することになり、結果、渋滞考慮の機能が付いていたとしても、同じ選択をしたクルマたちで普段は流れる田舎道の交通量が増えてしまうのではないか?と思ってしまうからなのだ。

加えて、子供のころから誰かに道筋や手順を決められてしまうことは大嫌いだし、「じっと順番待ちをする」ということもまずできない。なので行列ができるラーメン屋やレストランなどで、待ち行列の最後尾に加わり、おしゃべりしながら案内があるまで大人しく待つなんてことは、大森海岸の「麦苗」と目黒の「とんき」を除いてしたくはない。

そんなワガママなオヤジであるがゆえに、高速道路の状況がほぼ絶望的な行楽シーズンなどは、多少遠回りになるとしても、とにかく先行車&信号機の少ない広域農道などを選んで走る傾向が強い。自分の前後に同じように渋滞回避したと思われるクルマが見当たらないときなどは特に幸せな気分になれる。

その途中で、たまたま高速道路を跨ぐ橋から、どこまでもどこまでも延々と続く、逃げ場のない渋滞の列を眼下に見つけた時などは、たいして旨くもないラーメン屋に並ぶ長蛇の列を尻目に、知る人ぞ知る頑固おやじのラーメン屋に向かわんとするときの高揚感と同じく、独りほくそ笑みながら、何に対してか分からないけれど「勝った!」と感じてしまうのである。

なんだかちっちぇーなあと思える、いかにも小市民的な喜びだし、またこの道をいつか思い出して通るなんてことは間違いなくないだろうが、自分で見つけて自分で決めたルートの大当たりはやはり嬉しいものなのだ。

鈴木 琢也