寒い冬に思い出す、昭和の「おかみさん」のあたたかさ

強いからこそやさしかった2人のおかみさん

「おかみさんがぁ」の言葉から垣間見える、絆

冬本番を迎え、あったかい料理と心温まる話がほしい季節になりました。「おかみさん」と呼ばれる女性たちが活躍した時代を思いだしてみてはいかがでしょうか。

彼と出会ったのは、20年ほど前のことです。中学を卒業し、都内近郊のあるすし店で板前見習いとして修業中でした。そのすし店では高卒は3年、中卒は5年間の住み込み修業が課せられていました。中卒の彼は半年後に修業期間満了を控え、一人前のすし職人になる日を目前にしていました。

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5年間の修業中にできた貯金は、100万円。寮を出たあと、住居を借り、家財道具をそろえるために使うのだと言い、自立する日への夢が広がっているようでした。住宅雑誌を熱心に読んでいる姿を何回か目にしたことがあります。

しかし貯金が、自立生活に使われることはありませんでした。両親をハワイ旅行に招待することにしたからです。「おかみさんがぁ、『(修業中の貯金は)親孝行に使うもんだよ』と言うから」と少し不満そうでしたが、すでに航空券を手配していました。

彼は、口ぐせのように「おかみさんがぁ」を連発していました。セーターを買うときも、腕が痛いときも、兄弟子たちからしかられたときにもおかみさんに相談します。「おかみさんがぁ」の答えに納得できないときも、最終的にはおかみさんの言う通りにするのです。

万一「おかみさんがぁ」の答え以外の方法を提案すると、彼はかすかに挑戦的な視線を向けてきます。旦那さんや兄弟子たちが、「おかみさんがぁ」に逆らうような態度をとったときでさえ、旦那さんや兄弟子たちに向けて同様の視線を向けています。

まるで自分と「おかみさんがぁ」の間に入ろうとする人は敵とみなすぞ、とでも言わんかのような視線です。

嫁入り道具を売り払って弟子たちの食事代を工面する、おかみさん

もう一人のおかみさんは、建設会社の社長夫人です。会社とはいえ棟梁時代の名残を色濃く残す建設業者です。

嫁いだ翌日から、十数名いた若い住み込み従業員たちの世話に明け暮れていたそうです。長いおかみさん生活のなかでは、三度の食事を用意するお金すらなく、嫁入り道具を売って払ってやりくりした時代もあったといいます。

修業を終えた弟子たちのなかには、独立して一国一城の主となる人もいますが、仕事上の取引関係は続いていくことが少なくないようです。

銀行の貸し渋りや貸しはがしが連日のようにニュースになっていたころ、十分な資産がないまま独立した業者の多くが資金繰りに支障をきたすようになりました。

困ったときにすがるのは、棟梁です。一度や二度なら快く相談に応じた棟梁もたび重なると、嫌な顔をするようになります。請けた仕事が完成する前に、代金だけの前借。しだいに受注すらないまま、将来の仕事を想定した前借へと変わっていきます。呼応するように棟梁は怒りをあらわにし、追い返すようになりました。

自殺の文字が脳裏をかすめるなかで聞こえる、おかみさんの声

「年中カネに困るような商売なら辞めてしまえ!」

怒鳴られたうえ、資金繰りもできず。新たな資金繰り先は、高利貸し……。ニュースで見た「自殺」の二文字が頭をかすめながらの帰り道、ケータイが鳴り響きます。

棟梁のおかみさんからです。

「お・か・ね、あるよ。とりにおいで」

同じようなことが5~6回あり、毎回200万~300万円を都合してくれていたそうです。

その後、会社は倒産し、新たな生活の道を見つけたころです。おかみさんから何度も前借をしたことを棟梁に話したそうです。すると棟梁は、「あいつ(おかみさん)が用意したのなら、かまわん。わし(棟梁)はカネのことはめんどくさい」と、何事もなかったかような返答だったようです。

偉大なり、おかみさん!

この棟梁は商才がある人で、建築業のほかにも様々な事業に手を出し、成功させています。乗っ取り屋だと陰口をたたく人もいるほどです。にもかかわらずお金のことは、おかみさんに任せっきりだったということはあまり知られていません。

棟梁は昔の頑固おやじにありがちなタイプで、人前ではおかみさんを怒鳴りつけていたと言います。しかし内心では、おかみさんに頼り切っていたということでしょう。

強くなければやさしくなれないという言葉があります。

我が国の繁栄を築いてきた本当の力持ちは、おかみさんだったのかもしれません。

間宮 書子

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國學院大學法学部卒業。法律系出版社、弁護士事務所勤務を経て、現職に。
ビジネス法務を中心に、ビジネス全般、旅やエンタメなど広く取材・執筆に従事。
現在は埋もれていても100年後に大化け、通説となるようなネタを求めて活動中。