福澤諭吉に学ぶ「自己投資」―働き方の変化をどう捉えるか

この記事の読みどころ

誰もが知る福澤諭吉の功績の源流は、オランダ語から英語への転向にあります。英語をいち早く身につけたことが、その後の飛躍につながっていきました。

最近将来の職業に関する予測についてメディアで取り上げられることが多くなりましたが、職業や働き方が変化することは、今に始まったことではなく、過度に不安に思っても何にもなりません。

福澤諭吉のエピソードには「自己投資」に関するヒントが多く散りばめられています。

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大阪の適塾出身者で最も有名な福澤諭吉

先日、仕事で大阪を訪れた際、淀屋橋界隈にある適塾に寄ってみました。

適塾とは、幕末の大坂にて、蘭学者で医師の緒方洪庵によって開かれた私塾です。現在の建物は、修復工事は施されていますが、商家を買い取って塾とした当時の建物の雰囲気をよく残していました。

大阪市中央区北浜にある適塾の外観(筆者撮影、以下同)

蘭学を学ぶ者が全国から集まり、1人1畳ほどのスペースで寝起きをし、数少ないオランダ語の辞書や書籍を奪い合うように使って勉強していた様子が目に浮かぶようでした。

適塾で学んだのは1,000人を超えるとのことですが、その出身者の中で最も有名なのが、福澤諭吉です。適塾在籍中は、塾頭を務めていました。

福澤諭吉は、今の大分県にある中津藩で育ちました。中津藩は蘭学の盛んなところで、「解体新書」を著した前野良沢をはじめ、医学関係を中心に多くの人材を輩出しています。藩主が蘭学好きだったことが影響したようで、現在風に言えば、「蘭学の教育特区」のような場所でした。

適塾にある緒方洪庵の像

福澤諭吉の功績の源流

蘭学が盛んな当時の中津藩出身の誰よりも、また、蘭学を学ぶために全国から集まった多くの適塾出身の誰よりも、福澤諭吉を有名にしたのは何だったのでしょうか。

慶應義塾を創設したからでしょうか。それとも、「学問のすゝめ」などの著書を世に出したからでしょうか。

これらの功績は誰もが認めるところです。しかし、これらの功績は、「オランダ語を捨てて英語を学び直す」という決断と行動があったからこそのものと言えます。

オランダ語を捨てて英語に転向する勇気と決断

福澤諭吉は、長崎遊学後に大坂の適塾に学び、その後1858年に、「中津藩の蘭学塾の講師を務めよ」という藩命で江戸に出てきます。開塾した場所は、築地鉄砲洲の中津藩中屋敷の中(現在の聖路加国際病院の近く)で、慶應義塾発祥の地とされています。

東京都中央区明石町の現・聖路加国際病院の近くにある慶応義塾大学発祥の地

江戸に出てきた翌年、外国人の居留地となった横浜に出かけた際、自分が学んできたオランダ語が全く通じず、看板の文字すら読めないことにショックを受けました。

普通なら、「今まで学んだ蘭学は何だったのか」と落胆して終わるところです。そこは常人とは異なる福澤諭吉、横浜でショックを受けた翌日には、「これからは英語だ」と、英語を学ぶ機会を求めて行動に移します。福澤諭吉が26歳の時のことです。

とは言っても、長年の鎖国政策によって、先端技術である西洋のことを知るためには蘭学を学ぶしかなかった時代のことです。英語の文献もなく、英語を知っている人もいません。一緒に英語を学ぶ学友を見つけるのにも一苦労というありさまでした。

文章の方は、日本語をオランダ語に訳し、それをさらに英語に訳すことでなんとかなったものの、発音は何ともならず、長崎から来た子どもや、漂流民(注)がいると分かれば、教えを乞うたそうです。

(注)漁業に出かけた際に嵐などで遭難し、英米の船に救助されたものの、鎖国政策により日本に戻れなかった人たちがいました。その多くは開国後に日本に戻されました。「福翁自伝」では彼らのことを「漂流民」と表現しています。

そうした苦労の結果、英語をいち早く習得したことで、渡米する幕府の咸臨丸に乗る機会を得て、欧米文化を目の当たりにします。それらの経験が、慶應義塾や「学問のすゝめ」といった功績につながっていきました。

将来の職業の予測

ところで、最近、将来の職業の予測について取り上げられることが多くなったような気がします。

たとえば、ニューヨーク市立大学のキャシー・デビッドソン教授によると、「2011年度にアメリカの小学校に入学した子どもたちの65%は、大学卒業時に今は存在していない職業に就く」そうです(参考:産業競争力会議 雇用・人材・教育WG[第4回] 資料2)。

また、オックスフォード大学のマイケル・A・オズボーン准教授は、「今後10~20年程度で、アメリカの総雇用者の約47%の仕事が自動化されるリスクが高い」と予測し、影響度の大きい職業のランキングが世間をにぎわすところとなりました。

これらの予測は衝撃的に聞こえる内容かもしれません。しかし、スピード感の違いはあったとしても、今に始まったことではありません。小学校の同級生で、「大人になったらなりたい職業」として人気があった職業に就いている人はどのくらいいるでしょうか。

会社勤めという働き方は今でも存在しますが、ひと昔前までは当たり前だった終身雇用は、今や制度そのものが過去のものとなってしまいました。終身雇用に限らず、昔の形のまま存在しているものは少ないように思えます。

「自己への投資」に対するヒント

人工知能やロボット、ビッグデータなどの普及が進めば、ライフスタイルは当然変わっていきます。その文脈の中で、将来の職業の予測など、心をざわつかせる話も聞こえてくるかもしれません。ですが、過度に不安に思ってしまうと、何もできなくなってしまいます。

福澤諭吉にしても、それまでの蘭学の勉強に費やしてきた自己への投資を否定し、新たに一から投資をするようなものですから、かなりの決断だったと思います。それでもやり遂げたわけですから、恐れ入るばかりです。

福澤諭吉のこのエピソードには、教育や職業に関わる、いわゆる「自己への投資」に対するヒントがあるように思います。

ヒント1. 職業や働き方は常に変化しているものであると念頭に置く。

福澤諭吉の時代でも、蘭学から洋学へという大きな変化がありました。

ヒント2. 将来の職業や働き方を過度に心配するより、目の前のやるべきこと、やれることに全力に取り組んで経験を積んでいく。

福澤諭吉にしても、横浜に行ってショックを受ける前日までは、蘭学に全力に取り組んでいたはずです。「福翁自伝」では英語を学ぶ時のことについて、「数年の勉強の結果を空しくすることで、生涯二度の艱難辛苦だ」と思ったのは大間違いで、蘭学は決して無駄ではなかった」と述べています。目の前のことを全力でやることには損はありません。

ヒント3. 常にアンテナを張り巡らせておく。

 福澤諭吉が横浜見物に行ったのは、条約により横浜が開港した直後のことです。もし福澤諭吉が横浜に行かなかったら、その後の歴史はどうなっていたでしょうか。何事にもきっかけは必要ですので、きっかけを得るためにアンテナを張り巡らしておくことは常に必要です。

ヒント4. いざ変化をすると決断をしたら、迅速にアクションを起こす(少なくともそのような心構えをしておく)

 変化すると決断した後は、新しくできた、目の前のやるべきこと、やれることに取り組むしかありません。

まとめ

「福翁自伝」では、福澤諭吉は、「無目的の勉強」を勧めています。その部分を現代語に意訳すると以下のようになります。

「当時の適塾の学生は、その7~8割が目的なしに苦学していたが、目的なく勉強していたのが幸いして、江戸の学生よりもよく勉強ができたと思える。それに比べ、(明治時代の)今の学生は、勉強するとしても、いつも今後のわが身の行く先ばかりを考えていて、修行にはならないのではないか。」

「だからといって、ただうかつに本に向かうのは最もよろしくない。よろしくないが、どうしたら出世できるか、どうしたらお金が儲かるか、というようなことばかりに心をとらわれてあくせく勉強したとしても、決して真の勉強はできないだろうと思う」

「何となく勉強するのは最も良くない」としっかり釘もさしていますが、ぎらぎらした目的での自己投資もまた、わりに合わないと戒めているようにも聞こえます。福澤諭吉のような境地になるのは難しいことかもしれませんが、目の前のことに打ち込めば、いたずらに未来に怯えなくても良い、とも言っているようで、それだけでも気が軽くなるような気がします。

【2016年5月6日 藤野 敬太】

■参考記事■

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藤野   敬太

東京大学経済学部を卒業後、プライスウォーターハウスクーパースコンサルタント(現日本アイ・ビー・エム)等を経て、2001年から2013年まで、日興アセットマネジメントにて、アナリストおよびファンドマネージャーとして日本株ファンドの運用に従事。
現在は、オフィス・ラコルドの代表として、ファミリー向け・ファミリービジネス向けのコンサルティングおよびアドバイザー業務を展開する。
CFP(日本ファイナンシャル・プランナーズ協会認定)、1級ファイナンシャル・プランニング技能士、シニア・プライベートバンカー(日本証券アナリスト協会認定)。